承天寺の歴史
承天寺が創建されたのは、寺記によると平安時代末期の壽永三年(西暦1184年)とされています。この時代は、源氏と平家が争った治承・壽永の乱の時代であり、平家方では都落ちした後も、次の文治の元号を使用せず、この壽永をその滅亡まで引き続き使用したとされています。創建当時は、真言宗の寺院 長寿山上天寺として現在位置よりも山沿いの宮の脇に開かれたとされています。開基は、鎌倉幕府内の有力御家人であった畠山 重忠公(はたけやま しげただ)と伝えられています。
鎌倉時代となった建久四年(西暦1193年)に鎌倉往還(現在の国道138号線)建設の普請奉行として忍野に来た重忠公がこの寺を定宿としており、時の住職に帰依し、堂宇の整備に務め、仏像などを寄進したことに由来するとされています。現在、寺の本尊の薬師如来像、脇立日光大士十二神将はその当時のものと伝えられ、いずれも運慶作と伝えられています。その後火災に遭い、江戸時代に再建、その際臨済宗に改め山号を醫王山とし、寺名を承天寺としたと記録が残っています。また、醫王山の山号は、本尊の薬師如来の別名「大醫王」からと、かつて承天寺では富士山周辺の薬草を採取して村人に与えていたという説からという言伝えがあります。
本朝百将傳より/国立国会図書館所蔵
畠山 重忠公
鎌倉時代初期の武蔵国男衾郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市畠山)の豪族。武蔵国男衾郡畠山荘の荘官であった父の重能が畠山氏を起こしました。重忠公はその重能の子です。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対しますが、のちに臣従して治承・壽永の乱で活躍します。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、鎌倉幕府創業の功臣として処遇されました。しかし、頼朝の没後に実権を握った北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、子と共に討たれたとされています(畠山重忠の乱)。重忠公は、存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称され、優れた武将であったと様々な書物に記されています。さらに誠実で思いやりのある人格者として語り継がれ、全国各地にそのゆかりの品やゆかりの地があります。
鎌倉往還
「甲斐国史」によると、内野村と平野村(山中湖)の境を越える峠道を古代の官道(国道)であったと伝えられています。鎌倉往還は甲斐国で最古となる官道であり、この道を通る官吏(かんり/役人)は東海道から横走(御殿場)、籠坂峠、鳥居地峠、御坂峠を越えて、甲斐国へと至ったとされています。鎌倉時代においては、小田原を経由して鎌倉へと通ずる主要路であったとされています。
忍野村
忍野村は富士山麓に位置しており、四季に応じた様々な富士山の姿を見ることができます。
今では俗に忍野平野とも呼ばれるほど平坦地が広いのですが、往古は湖面であったものが桂川の浸食によって干上がったものといわれています。この湖に水を供していたのが富士の伏流水で、湧出によって地内の各所に池ができ、その主な池8か所を忍野八海と呼び、古来から伝説と信仰の対象となってきました。